ネーミングに込めた思い

美しい冬と書いて「みふゆ」。
人の名前のような少し変わった商品名に込められたメッセージをご紹介します。

パイとフィリングの絶妙なバランスが楽しめるミルフィーユを、
口当たりのよいコーティングチョコレートで包んだ「美冬(みふゆ)」は、
2005年に発売されたISHIYA自慢のスイーツです。
商品名に、ミルフィーユのミ、フ、ユが含まれているのはお気づきでしたか?
人の名前のようで、ちょっと変わったネーミングの「美冬(みふゆ)」というお菓子。
実は、ほんとに人の名前から名付けられたものなのです。

当時の石屋製菓代表取締役社長石水勲の娘さんのお名前は「美冬」さん。
社長は、いつかお菓子に自分の娘の名前を付けたいと考えていました。
しかし、それにふさわしいお菓子はなかなか生まれてきません。
そして、2005年。ついに自信をもって発売できるミルフィーユ菓子に出会い、
「美冬(みふゆ)」という名前を付けました。

愛する娘の名を冠した商品ですから、味はもちろん、パッケージや販売方法など、
すべてにわたって当時の社長のこだわりが表現されています。
20年たった今でも、「美冬(みふゆ)」はISHIYAにとって娘のような存在。
だいじに商品を育んでいっています。

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ISHIYA「美冬」20周年
レジェンダリーインタビュー

誕生秘話編
 これからも「美冬」とともに

「美冬」は故石水勲会長と洋美さんの
長女の名前です。
会長はいつかISHIYAのお菓子に
娘の名前をつけようと考え、
ミルフィーユ菓子の「美冬」を
開発する以前から、
すでに商標登録を取っていたそうです。
当時の思い出を、現社長の石水創と
母・洋美さんが語ります。

代表取締役社長

石水 創

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石水 洋美さん

急がず大事に育てたい

 父がいつ商標登録を取ったのか知りませんが、自分が作ったお菓子に「美冬」と名付けたい、という気持ちは以前から温めていたようです。私は2004年春にISHIYAに入社し、その前にイギリスに留学していて、帰国した時にちょうど「美冬」の試作をしていました。工場で試作品を食べて「めちゃくちゃうまい」と驚いたのをよく覚えています。そのお菓子に姉の名前をつけると聞いて、おもしろがっていた記憶もあります。
洋美 長女の名前は出産後、主人が2回目に病院に来たときに「名前決まった!」って言うので、「何?」と聞いたら、「美冬!」って。1月生まれなので、美しい冬、と浮かんできたそうです。私は聞いたことのない名前でびっくりしましたが、すごく綺麗だし、いいなと思いました。主人らしくて、聞いたときはつい笑ってしまいました。すごくロマンチックな人なんですよ。

 石屋製菓が「白い恋人」を発売したのが1976年で、その前年に姉の美冬がもう生まれていたんですよね。そう考えるとまたおもしろい。「美冬」を発売した当時は、「白い恋人」に次ぐISHIYAの看板商品として売り出して行こう!と全社をあげて力を入れていました。
洋美 その頃たまたま主人の講演会に行ったら、話のなかで、いま「美冬」という新商品を売り出していて、自分の娘の名前をつけたお菓子で、「急いで売ろうとは思っていませんし、大事に育てていきたいと思っています。返品は一切お断りです」と言って会場を笑わせていました。
当時長女は東京在住で、札幌に帰るたび飛行機にも空港にも「美冬」の広告がたくさん出ていて、デパートでは「美冬いかがですか?」と言われ、これはすごいと主人に話していました。

最初はロールケーキの名前だった

 じつは「美冬」発売の2年前、「白いロールケーキ」を発売したとき父が「美冬」と名付け、物産展などで販売していました。でもロールケーキは生菓子で、日持ちがあまりしないうえ、大量に作ることができるお菓子ではありません。ISHIYAの主力商品はお土産菓子で、この“とっておきの名前”はISHIYAのロングセラーになる焼き菓子につけるべき、と社員から大反対の声が上がったそうです。
洋美 社内の意見はよく聞くようにしていたと思います。もちろん自分と違う意見も。みんなが同じ方向を向いているのは、つまらないし、ダメだと言っていました。
 それから新しいミルフィーユ菓子を「美冬」にすることが決まりましたが、開発には時間がかかりました。なかなか父のオッケーが出ないので。最後に、当時の競合他社のミルフィーユ菓子を全部買ってきて、父が一つずつ食べ比べをして、「これは美冬の勝ち」、「美冬の勝ち」、「美冬の勝ち」……と全部に勝った時点で、「よし!これで行こう」とゴーサインが出ました。スポーツの勝負みたい。父は、仕事もスポーツも、いつも何でも全力で楽しむ人でした。

洋美 家で仕事の話や愚痴を言うことは一切なかったです。
 でも、ずっと考えているんですよね。それは何となくわかりました。
洋美 すぐ行動に出るから。例えば家で映画を観ている時に、急にタクシーを呼んで「ちょっと行ってくる」って。映画を観て思いついたアイデアを、すぐ制作会社と打ち合わせしに出かけちゃうような人なんです。
 「このシーン面白い」ってことを常に仕事に結びつけていましたね。
洋美 家族でディズニーランドに行っても、「これ、うちの工場見学でやろう」とかね。
 そうそう、白い恋人パークの工場見学はホーンテッドマンションからヒントを得ています。

20歳を機に、改めて個性を大事に

洋美 家族みんなで出かける時は主人が一番楽しんでいました。子どもが小さい頃、お友達の家族とキャンプに行くと、必ず本人が最後まで遊んでいるんです。「午後3時に帰りましょうね」と決めると、普通はその時間までに帰り支度をしますよね。でも主人はちょうど3時に海から上がって来て、泥だらけのまま車を運転して帰る。子どもみたいでしょ。
 自分が楽しいことは子どもも楽しいだろう、って感じでしたね。父が「遊んでくれる」という感覚は全くなくて、遊んでいる父について行く、というイメージかな。
洋美 遊びも仕事も一緒で、区別がなかったですね。そのなかから、「美冬」というお菓子が生まれてきたのかなと思います。

 「美冬」は20年のロングセラーになりましたが、まだまだ伸びると思っています。新しいフレーバーや、新しい食感、味わい、いろんな面で進化できる。今回、発売当時をふり返って、20年前の父はもちろん、開発や製造、販売、ブランディングなど、「美冬」に携わってくれた全ての方々の熱い気持ちを思い起こし、20歳になった「美冬」をもっと大きく、でも急がずに、個性を大事に育てていきたい、という思いが強くなりました。これからも「美冬」の成長を楽しみにしていただければと思います。
洋美 祖父の代から受け継いでいるものを大切にしてくれているので、私から言うことは何もありません。仏壇にも「ちゃんと守ってるよ。安心してね」と言っています。今回は懐かしい話をする機会をありがとうございました。

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